
第八話 「大石食料品店の勘定場」
まだ小学校に上がって間もない頃、私は大石食料品店でよくお菓子をもらって食べていた。商品を運ぶ台車の取っ手に手をかけて、100センチほどしかない身長で勢いよく台車を走らせ、直進したり曲がったりして薄暗い店内をぐるぐる回った。途中で目に入る菓子の棚から、「ビックリマンチョコ」や「蒲焼きさん太郎」や「こざくら餅」や「ふ菓子」などを、バシバシ取ってゆく。私は左利きだから、この時の台車も左回りで回っていた。
我が物顔で台車を勘定場に乗り付けると、菓子を勘定場に広げる。
「はい、全部でいくらですか」
と勘定場に腰掛けている母方の祖母が言う。
「はい、わかりません」
私は計算ができなかったので、素直に答える。
すると祖母は対面で、白紙を勘定場に敷くように置いて、右手で計算を書き始める。ドドーン、と私に金額が突きつけられる。
「払えません」
「じゃあ、ツケにします」と言ってから、祖母は毎回「食べな」と言った。
私はその場でビックリマンチョコを開けようと奮闘するが、開かない。
「開かない」祖母に助けを求める。
「開かないってことは、食べるなってことだよ」
まだ幼かった私は素直に「え、そうなの」と思ったものだった。後から分かったのだが、菓子の切り口というのは右利きで開けやすいように作られていて、左利きの私が開けようと思ってもどうしても開けられない。それでもガメツイ私は、それらを無理やり歯で千切って開けていた。そうしてチョコレートは祖母にあげて、お目当てのおまけのシールだけもらっていた。こういった小狡い行為は私だけではなく、当時の子供たちの中で広くで行われていたことだった。店にやってくる近所の子供らは、みんなシールだけほしいので、ビックリマンチョコを買うとシールだけとってチョコレートは祖母のところに置いていった。だから、祖母の勘定場の下にはビックリマンチョコが溜まっていた。それを甘党の祖父が見つけて、コーラやソーダと一緒に食べるので、祖父はそのうち糖尿病になって死んでしまった。
大石食料品店というのは、まだかつてスーパーというものがなかった時代、町で初めての総合食料品店であった。そこでは、祖父母が自宅で飼っていた鶏や豚などが売りに出されたり、小さな畑で作った野菜が売られていたり、自家製の豆腐が売られていたりしていた。缶詰めもあったし、調味料もあったし、花も売っていた。そのうち多くの商品は仕入れに行って調達して売るようになったが、もともと自家製で作っていた豆腐や漬物などは、変わらず手作りで新鮮な物を出していた。
仕事中、祖母は大方、木製の勘定場に座っていた。まるで、銭湯の番台に座るおばあちゃんのように腰掛けていた。そこで祖母はいつも書き物をしていた。鉛筆で書いていることもあったし、筆ペンで書いていることもあった。私は勘定場の向かいに張り付いて、祖母の書いているものを度々眺めていた。書いているのは、大体、人名であったり、地名であったり、ことわざであったりした。たまに、計算の練習をしていることもあった。
「何をしているの」と祖母に尋ねると、
「漢字の練習をしているんだよ」と彼女は決まって答えた。
「なんで漢字の練習をしているの」と再び尋ねると、
「綺麗な字を書くためだよ。漢字を覚えるためだよ」と決まって答えた。祖母はあまりおしゃべりな人間ではなかったので、端的に答える言葉がやけに耳に残った。言葉はシンプルなほど心に残るのだと、この頃身に染みた。
ところで、私はいつも勘定場を挟んで祖母と対面していた。私は左利き、祖母は右利きなのだが、対面しているので、私は祖母が私と同じ左利きなのだと思っていた。因みに私は幼い頃は鏡文字しか書けなかった。自分の名前を書くときも鏡文字で、しかも横書きなら右側から、普通と逆方向に書いていた。
祖母が自分と同じ左利きだと思っていた私は、何故、彼女がこんなにも上手に文字が書けて、菓子の袋を魔法のようにさらりと開けてしまうのか不思議でならなかった。そして、字を書けなかったり袋を開けられなかったりすることで誰にも咎められないことが羨ましかった。私は幼いながらに、祖母は物静かで小柄だが、背筋がしっかり伸びていて、漢字が上手に書けたり、計算が速かったりして、毎日ちゃんと勘定場を守っている偉大な人なのだろうと考えていた。それは、テレビゲームでいうところのラスボスのような存在で、祖母は私には到底叶わない、何か底知れない力を秘めている人物のように思えた。
大石食料品店は、もうない。町の素朴な食料品店は、次々と新しいスーパーが現れる時代に次第に存在意義を薄れさせていった。そうして祖父と祖母も、もうこの世にいない。祖母へのツケもそのままだ。しかし、あの勘定場は今でも、未だ倒せないラスボスの存在と共に私の中で生きている。勘定場に座る祖母の姿。対岸からは左利きに見える、右利きの賢者だ。
(了)
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第七話 「両手の祈り」
子どもの頃の私にとって、お盆というものは、何かある種のお楽しみ行事のようなものだった。母方の祖父母は食料品店を営んでいたので、毎年お盆にはいろんな食べ物が用意された。お菓子はもちろん、お店で売られていた祖父の手作り豆腐などのお惣菜。そして何故か、ほとんど毎年のようにカレーが出てきて振舞われた。叔父や叔母やその子供たちが賑やかに集まってそれを食べる。大人の気苦労を知らない幼いうちは、ただ集まって食べるだけの恒例のイベントのようにとらえていた。
しかし、大人になるにつれ、お盆には、結構、面倒な支度が必要であることが分かってくる。例えば、割り箸を手折って、茄子や胡瓜で馬などを作って供える。お坊さんが来るのでお盆用の飾り付けをする。お墓の掃除やお墓参りにゆく。
こういった一連の仕事はほとんど父母がやっていたが、私が手伝うこともあった。ひな飾りに似て、作っているあいだは、母親とイライラしながら、喧嘩しながら、例によって左利きの不器用な手つきで組み立てたり、飾ったりするのだが、その全体像がすっかり揃うと、子どもながらに大げさに偉業を達成した気分になったものだ。仕上がったものを眺めてみると、ひな飾りも、お盆の飾り支度も、何かしらを『迎える』準備だったことが腹の底に落ちてくる。
近年、お祭りも、お盆も、葬式も、お正月も、ありとあらゆる文化が簡略化してきて、簡素になってしまった。それには高齢化や少子化など、色々な原因があるのだろう。時代の移り変わりによる自然な流れだとも云えるかもしれない。だが、今の子どもたちに、こういった体験が少なくなってしまったことは、やはり悲しくもある。それぞれの行事には、そこにしかない情緒、そこでしか感じられない畏怖、その場にしかない温かさがあるように思う。こうしたものと触れ合う経験は、何か魂に浸み込むような大切な記憶を子どもたちに残してくれる機会にもなっていたはずだ。(ちなみに、子どもというものは無垢な存在だから、お盆には本当にあの世から還ってきた家族との邂逅を果たすこともあると私は信じている。)
それでも、すっかり簡略化されてしまった今の行事内にも、『合掌』するという機会は多く残されているだろう。合掌するには右手と左手の両方を使わなければならない。右手と左手を合わせる。いつでもどこでも、心の中にある両手でも合掌することができる。あらゆる習慣が簡略化されても、残るのは手を合わせること、祈ることである。お盆は今も残る、日常線上にある意識的な祈りの風景の一つなのだと私は思う。
私は普段よく、無意識に心の中で手を合わせることがある。右手も大事、左手も大事、どちらも、愛おしい。両手を合わせれば、温かい。何故温かいか? 体温があるから。生きているから。生かされているから。
生者と死者の狭間に、祈りは横たわっている。
右手と左手とで、それを確かめることができる。
(了)
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第六話 「左側の車窓から」
かつて私がよく乗っていた在来線の座席は、現在のような両側にずらりと並ぶ格好ではなく、二席ずつ対面していて、四席でワンセットのような作りになっていた。だから、知らない人と向かい合わせで座ることも日常的によくある光景だった。
私は左側が心地よいので、空いていればいつも電車の進行方向の左側の席に腰掛けていた。左側の車窓から見える景色は当然ながらいつも左側の風景ばかりで、繰り返し電車に乗っているうちに自然とその風景を細かく覚えてしまう。どんなビルが建っているのか、どんな家や工場が建ち並んでいるのか、何度も見る映画のお決まりの場面のように覚えてゆく。私はとりわけ、山の形やその稜線、それから田んぼを眺めるのが好きだった。季節によってあらゆる色に表情を変えるそれらの景色たちを、私は毎回、飽きることなく眺め続けるのだった。
電車に揺られているとき、ふいに知らない人に声をかけられることもあった。「どこまで行かれるんですか。」「静岡から来たんですよ。」この頃の私はスマートフォンを見るのではなく、人や景色を見ていた。それらに向き合っていた。たぶん左側の景色には、左側という場所だけで感じる、左側にしかない何かささやかな「特別」があったのかもしれない。
しかし、最近左利きのエッセイを書き始めて、私はたまに思うのである。あのとき右側の車窓にはいったいどんな風景が広がっていたのだろう、と。もちろんそんなことは知らなくても生きていけるのだが、私は漠然とした想いで空想に耽ってしまう。右側には、右側だけに見えていた景色があって、山や稜線があって、けして大げさなことではなく、それを目にする者の人生の一ページを広げてくれていただろう。例えばそれらの右側の風景が、もしかしたらあるとき急に思い起こされて、情緒を呼び起こし、それが詩になっていたのかもしれない。なんだか、少しもったいない気もする。
私は何故、右側の車窓を頑なに見ることがなかったのだろうか。それは、私にとって左側の座席がもっとも心地よかったからに他ならないのだけれど、電車の内装が現在のように変化していってしまうことを当時の私が知っていたなら、もしかすると、右側の車窓から眺める景色にも貴重なものを感じ、右側の座席に座り直してみるという試し書きのような行動を起こしていたかも知れない。
そういえば、日常的に私は右側のことに疎い。右手を使えないことばかりではなく、右側にいる人や、右側を通り過ぎる町並み、右側から聞こえてくる音楽、右側に落ちている物、散らかっている物、片付いている物、ありとあらゆる「右側」に疎い。そういったことを考えるとき、私はあの、かつて何度も眺めた左側の車窓の景色と、見ることがなかった右側の車窓の景色のことを思い起こすのである。
私は今、左側について考えることで、右側を考えることも多くなっている。何かをしているとき、ふと、右側に思いを寄せる。そうして右側を見て、「そうか」と心のなかで微笑み、不思議な満足感を得て、また、前を向いて歩き始めるのだ。
いつかまた、あの古い型の電車のように向かい合わせに座る車両に巡り合うことがあったら、私はあえて、右側の車窓を眺めてみようと思っている。
(了)
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第五話 「手が壊れた日」
私はかつて漫画家を志していた。中学校に入る頃にはすでに漫画家になりたいと考えるようになっていて、コマ割りなど漫画を描く上でのノウハウを、日々漫画を読み込むことによって独学で学んでいった。
私は左利きなので漫画も当然左手で描いていたが、左利きの私にとって漫画を描くという仕事は有利な点と不利な点とがあった。有利に思ったのは台詞をすべて縦書きで鉛筆書きすれば良いところで、左利き特有の横書きのストレスを味わう必要がないこと。逆に不利だと感じたのは右のページから左のページへと読み進んでいくルールがあったこと。私にとってはこの右から左という流れに従って漫画を描いていく作業は、何とも言えないじわじわした違和感を伴うものだった。今思えば無意識のうちにストレスを積もらせていたわけだが、作業自体は慣れてしまえば大きな問題ではなく、私はこのルールを受け入れて漫画を描き続けた。こういったこともまた、右利き社会に順応して生きていかなければならなかった者の癖であり、違和感を受け入れ日常化させ、やがて当たり前にしていくという行為だったのだろう。
このように漫画を書き続けて十年ほど経過する頃には、下書きもペン入れも背景も、一通り上手に作画できるようになっていた。ただし、それはまだ漫画家として自分の絵を描けるようになったという段階ではなかった。私は何かを学ぶときはほとんど独学で、初めはとにかく模倣することから始める。それが自分にとって最も学びやすいやり方だからだ。(後から聞いた話しで、模倣というものは私に限らず、漫画でも絵画でも小説等の文章でも、一般的に効果的・基本的な上達方法とされているそうだが、私の場合は誰に教わるでもなく、ごく自然にそういうやり方を選んでいた。)
しかし、「模倣」には落とし穴がある。模倣という研究を重ね上達すればするほど、お手本にしている作家の絵や小説の書き方が、職人仕事のように自分に染みついていく。上手くはなっていても自分自身のオリジナリティはどこかに行ってしまい、個性を見失ってしまうのだ。私は当時漫画ではジブリ作品や浦沢直樹、手塚治虫から大きな影響を受けていたから、何とかしてそこから脱却する努力を強いられることとなった。それは小説家としても同様で、模倣で上達した私は影響を受けた筒井康隆や椎名誠、山本周五郎や川上弘美という作家たちから脱却しなければならなかった。私は二回集英社の最終選考に残ったが、幸か不幸かそのうちの一回目には川上弘美ご本人が審査員の一人を請け負っていた。そのせいか選考委員たちからは川上氏へのリスペクトが過ぎると批評された上、模倣によって身に着けた多様な技術についても「あれもできる、これもできる、といったコンビニエンスストア的な作品」と酷評されてしまった。そう言われても当時の私には身につけたものを崩すという概念がなかったので、一体どうすればよいのか皆目見当がつかなかった。二作目で再び最終選考に残った『赤い傘』は、ゼロから自分自身の個性で書き上げたものだったが、それはそれで「ちびまる子ちゃんみたいな普遍的過ぎるテーマ」と批評された。だったら一体どうしたものかと結局また筆が止まってしまったのは苦い思い出である。
さて、前置きが長くなってしまったが、いよいよ本来漫画家を目指していたはずの少女が、どうして漫画を描かなくなり、小説を書くことになったのかを話さなければならない。
漫画を最後に描いたのは二十一歳くらいのときだろうか。私はこの頃、ある日を境に漫画を描くことができなくなってしまった。私は完全なる左利きだから、何をするにも左手を使ってきた。左しか使わない上に筆圧がやたら強い。幼少の頃からのストレスのためか、何をするにもいつも無意識に力んでしまうのだ。だから漫画を描くときも、ペンを持つ手にはいつも力が入っていた。一言に漫画を描くと言っても、下書きからペン入れから、背景や髪の毛などに墨を入れるベタ塗りから、カッターを使うスクリーントーン貼りまで長い行程がある。現在ではパソコンで描いている漫画家も多いと聞くが、当時は手描きが当たり前だったから、何をするにもひたすら左手を酷使して進めてゆくことになる。それでも私は手書きの味わいというものに見る職人技のような感触が好きで、この労苦を楽しんでもいた。
それがある日、突然に途絶えた。左手に激痛が走ったのだ。それまでも慢性的な腱鞘炎ではあったが、その日の痛みは特別だった。物理的に左手が動かせなくなってしまったのだ。キャラクターの輪郭線をなぞることもできなくなり、私はその日のうちに整形外科に行き、不安を抱えながら診察を待った。描けなくなるかもしれない、動かなくなるかもしれない、夢を諦めなければならないかもしれない。いっぺんに、色んな想いが駆け巡った。診断は予想通り、酷使による腱鞘炎だった。ただし生易しいものではなく、これ以上酷使を続けたら左手が動かせなくなるかも知れないと警告されるほどの重症だった。
どのぐらい考えただろう。何日か、何ヶ月か、思い出せない。気がつけば、私は漫画家への道を諦めていた。もし運良くプロになれても、描き続けることはできない。プロとしての漫画家の日々の作業がどれほど過酷なものか。長年漫画とつきあってきた自分には、それは痛いほど良く分かっていた。納得した覚えはない。納得しないまま、私の左手は、漫画を描くのを止めた。憤りで、おかしくなりそうだった。自分の中の物語を伝えていきたいのに、漫画という表現方法はエンジンを完全に失ってしまった。
そうして私は行き場のない憤りを日記に綴り始めた。それがやがて、物語めいたものに変化し、物語めいたものは小説の形を成してゆき、そして私は新たに小説作法の研究を始めたのだった。それが、今の私の作家活動に繋がっている。私は左手に苦しみ、左手に助けられ、捨てられ、救われてきた。まるで人生の半分が左手に纏わる物語のような気がする。今でも腱鞘炎は残っているから、パソコンやスマホで文章を打つときも、左手の痛みと隣り合わせで私は日々活かされている。もし私が右利きだったら、あるいは両利きだったら、別の道もあったかもしれない。でもきっと、この人生を選んで、私は産まれたのだ。そうやって産まれた私は、生みの苦しみのなかで、夢を描き、夢に活かされ、生き続けてゆく。夢がなければ、生きていく気概も湧いてこない。ある日、芸術家の友人に言われた。
「神様から才能を与えられた者は、その才能を活かしていく義務がある」
時折その一言がふと思い出され、胸に染みることがある。
(了)
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第四話 「両輪の文武」
私はほとんど文筆の基礎というものを知らないまま小説家になった。もしかしたら学生の頃に国語の授業で何か教わっていたのかも知れないが、何しろ私は学校で強制される勉強は嫌いで、授業中は大抵漫画を描いているような生徒だった。休み時間は図書室に行って、興味のある宇宙や地学の本、歴史の年表や土地と祭りや信仰の文献などを調べていた。そんな私がどうして文学に触れるようになったのかはまた別のエッセイで書こうと思う。とにかく私は文法だの構成だのといった技術を知らず、ただ脳裏に浮かぶ光景を言葉にすることで詩や小説を綴っていた。
小説家としてデビューしたとき、当時の担当に「本当は漫画家になりたかった」と話したのを覚えている。担当に笑われて、私は地に足の着かないような違和感を覚えた。私にとっては物語を伝える手段として漫画も小説も差はなかったのだが、ここでは何か違うらしい。立派な大学を出た作家が多く活躍する文学界で、無学な私は異質な場所に来てしまったような、分不相応の場所にいるような心もとない感触を味わっていた。
そんな私がやっと国語の基礎を学ぶ機会を得たのは三十歳を過ぎた頃。後に今の夫と結婚することで義父となる「あきを先生」と出会ってからだった。元国語教師のあきを先生は文学者であり、しかも柔道の先生でもあり、そして左利きでもあった。学生時代の経験から先生というものには常にアレルギー反応を示す私だったが、白髪頭のあきを先生に笑顔を向けられると、すぐに不思議な安心感と親近感を抱いてしまった。
あきを先生は大人のための文学教室というものを定期的に開いていた。文学といっても仰々しいものではなく、誰でも気軽に参加できる楽しい文章講座。先生が手書きで作成したテキストに沿って文学に親しみ、最後に2Bの鉛筆を使って四百字詰め原稿用紙に作文を書く。百人一首や源氏物語など様々なテーマが用意され、初心者でも無理なく軽快に文学や執筆の入り口に向き合えるような仕組みになっていた。作文なんて無理と言っていた参加者も最後にはのびのびと課題作文を書き上げてしまう。私の文学に対する緊張感や抵抗感、苦手意識や劣等感は、先生の講座に参加することで次第にゆっくりと緩んでいった。
私たちが作文に挑戦するとき、あきを先生は毎回「起承転結」の構成で書くように説明してくれた。私が起承転結というものを意識したのはあきを先生の講座が初めてだった。小説を書くときも詩を書くときも無の状態で現れる絵を言葉に表しているに過ぎず、それはたぶん、今でもあまり変わっていないのだが、私は先生の講座に参加したことで「起承転結」という概念も忘れることができなくなった。今まで無意識に書いていたものを意識して書くのには不自由を感じたが、もし私が無意識でありながら起承転結を会得することができたなら、きっともう、つまらない苦手意識やら劣等感やらに足を引っ張られることもなくなるように思えた。
先生と出会ってから十数年が経ち、一年前、あきを先生は故人となった。自分は果たしてどのくらい無意識と起承転結の両輪を会得できたのか、まだ判断はつかない。それよりも今はっきりと分かるのは、あきを先生が文武両道の人、両利きの人だったということだ。
柔道の先生でもあったあきを先生は、教員時代行く先々の中学校で柔道部を作り、長年少年柔道の指導に携わった功績のある人物だそうだ。私は柔道のことはよく分からないが、段位は七段。黒帯よりさらに上の紅白の帯を締め、高齢になっても大会に出続けていたというのだから、きっと柔道家としてもすごい人だったのだろう。一方で文学をこよなく愛し、退職後も国語の教師であり続けた。先生は八四歳で故人となるまで、日々のことを、何気ない日常のことを言葉に書き記し続けた。世に出るような有名な作家にはならなかったけれど先生は十分に作家だった。ある意味で私よりよほど作家ではないかと思う。
先生が子供の頃は箸や鉛筆を持つ手は当然のように右に矯正される時代だったから、先生は左利きだけれども文字は右利き、お箸を持つのも右手だった。それ以外はおおかた左利きだったようで、柔道は左組み、ボールを投げるのも左。きっとあきを先生は矯正された右利きも、されなかった左利きも、それなりに折り合いをつけて生活してきたのだろう。一番印象的だったのは、玄関の鍵を開け閉めするとき。鍵は左利きで回すので、なかなかうまく開けられない。人情豊かなあきを先生のまわりには先生を慕う人情豊かな人たちがいつも側にいたから、そんなとき誰かがいつも先生を助けていた。自転車の鍵も左では開けづらいようで、時々手伝ってもらっていた。あきを先生は鍵を回すたびに、うまくできないもどかしさで唸るような顔をしていたのを覚えている。見るたびに私は「その苦しさ、痛いほど分かるよ」と心の中で呟いていた。伝えたかったのに、伝えられなかった言葉の一つだ。だから今、こうしてここに書いておこうと思う。
柔道も上手だったし、矯正された右手でもあんなに上手に字を書いていたのだから、あきを先生は実際には器用な人だったのだと思う。それなのに左利きのギッチョであるがゆえに不器用だと思われたり、自分でも「オレはぶきっちょだから」と笑ったりしていた。けれどこの右と左の両輪、器用と不器用の両輪があったからこそ、あきを先生はあれほど寛容に人間を愛し、たくさんの教え子に慕われ、大勢の人を助けてくることができたのではないかと思う。あきを先生は弱い者、貧しい者、無学な者、不器用な者を決して馬鹿にすることはなかった。博識と純朴、芸術性と大衆性、真摯と陽気、強さと優しさ。私は本当の意味での文武両道とは、あきを先生のような両輪を兼ね備えた人のことを言うのだと思う。
私は今も、まるで生きているみたいに、あきを先生の文武両道の精神に触れると感じることがある。それは温かくて、私は気がついたら眠っている。夢の中で、あきを先生はこれまで出逢ったたくさんの人たちの幸せをたくさんの短冊に願っていたり、書きかけの原稿用紙を空に向かって瓦版のように撒いていたりした。白紙の原稿用紙を拾ったとき、次はあなたに託していくよと言われたような気がした。空には幾重にも、七色の虹がどこまでもかかっていた。その先はあまりの輝きで見えなかった。そういう場所に、あきを先生はいるのだと思った。
(了)
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第三話 「自分以外みんな敵!」
私は小学生の頃から学校の先生からも生徒からも他の大人たちからも、左利きであることに対してなんらかの揶揄を受けてきたが、それに加えて私の将来の夢は漫画家で、漫画やアニメが好きなオタクだった上、さらに眼鏡もかけていたので、結果当然のごとくあらゆるイジメを受ける学生時代を過ごすこととなった。漫画「Dr.スランプ・アラレちゃん」が流行っていたこともあり、眼鏡の私は揶揄をこめて「アラレちゃん」とあからさまに意地悪く呼ばれたものだった。アラレちゃんを知っている方は分かるだろうけれど、アラレちゃんは「んちゃ」と叫びながら口から衝撃波を発する「んちゃ砲」という必殺技を持っていた。「んちゃ砲」をもし使えたらどれほど心強いか、私は頻繁に想像した。(想像の中であっても少なからず当時の私の心を慰めてくれたアラレちゃんには、今も一方的に感謝の念を抱いている。)イジメられながら、私は相手に向かって心の中で、しょっちゅう「んちゃ砲」をかましていた。
「オタク」と言われればその場で「んちゃ砲」。「ぎっちょ」と言われればその場で「んちゃ砲」。この妄想の中で発せられている「妄想んちゃ砲」がいくらかでも相手に効いてくれはしないか切に願いながら、少女の私は日々「んちゃ砲」を連発していたのだった。シュールなことに、私はこの漫画「Dr.スランプ・アラレちゃん」が連載されていた集英社から小説家デビューすることになったのだが、これは当時の妄想の賜か、はたまたアラレちゃんのご加護のおかげだったのか。いずれにしても生まれながらの負けず嫌いが導いたものであることは確かで、だとすればやはり「んちゃ砲」を連発することが小説家デビューへとつながったとも言えなくもないのかも知れない。
さて、左利きの人間は右利きの右側に座ると「腕が当たって邪魔だ」と言われることがあり、私は日常生活の中で未だにそういう経験をすることがある。私はそんなとき、あの頃の「んちゃ砲」を思いだす。もちろん右利き社会に適応していかなければならなかった私は、右利きの人たちが生活しやすいように、あえて、ほとんど無意識的に彼らの左側に座るようになったし、いわゆる社会人らしく、にこやかにそれを行うようになっている。しかしそんな私の心の奥では、密かに「んちゃ砲」が放たれていることを彼らは無論知らない。だから彼らは、私が左利きであるが故に右利きに気を遣っていることには滅多に気がつかないのだ。
気づかれないまま左利きの気遣いを繰り返すとき、私は些細な怒りを抱く。思春期を迎えた中学生くらいの頃の私は、幼少の頃から身に着けてきた癖やイジメの影響もあり、周囲の人間が「自分以外みんな敵」に見えて仕方がなかった。当時の私は、見た目は真面目に見えるけれど、中身は不良だったと思う。会う人会う人、とにかく敵。敵に決まっている、敵に違いない、よし敵だ。まるで出会い頭に敵を倒すゲームでもやっているかのように、常に構えの姿勢をとっていた。気を抜く暇はなく、眠ったら攻撃される兵士のような気分でもあった。
大人になってからも悪夢にうなされ、「馬鹿野郎!」「やめろ!」と叫んで目を覚ますことが度々あった。私の左利きを揶揄される夢も多かった。そこには当然、私の中の怒りが渦巻いていた。この怒りと一生付き合うのは疲れ過ぎる。だから私は成長するにつれ、徐々に、色んな本や小説を読んで、書き手や主人公がどうやって怒りと向き合って、闘ったり、打ちのめされたり、再び立ち上がったり、人生を変えるような出来事に出会ったりしたのかを、分析した。その読書体験は、確かにある程度私を納得させるものであったし、自分の考え方や見方を変える工夫や方法を教えてくれるものでもあった。ただ、それでも、この怒りというものは、私にとってどうにも厄介な難儀な試練だった。もう「んちゃ砲」も、あまり効果が感じられない年頃になっていた。日常に溶け込もうとすれば、右利き社会の中で常にストレスはつきものだった。裁縫ひとつ器用に出来なかったし、ノートを取るときも、横書きの下手くそな文字に嫌気がさしたりして泣けてくる。だからノートは縦書きしか書かないと決めた。周りがどう思おうと、せめて自分のテリトリーの中だけでは自分に楽をさせてあげようと思った。(というより、開き直った。)やがて作家になる頃になると、色んな変わった人々に出会うようになった。この時期の私はまだ社会の反逆者だったけれど、かつて本を読んで分析した経験から、実際に目の前にいる、色んな個性を持つ変わった人たちを見つめて、分析するようになっていた。これは作家の癖でもあるけれど、昔から世間というものをどこか距離を置いて眺めてきた自分の性質でもあったのだと思う。イジメられっ子の視線は、無駄ではなかった。
そうしていつの頃からか、私は私に好意的に接する人間がいることに気づき始めた。私の方では習慣的に「自分以外みんな敵」と思う癖があるのだったが、こちらが「どうだこらあ!」「やんのかてめえ!」「かかってこいや!」と勝手に意気込んでいても、相手からは「花巻さんって面白い人だね」と笑顔を返される。拍子抜けを食らった私の脳裏に浮かんだのは「独り相撲」という言葉だった。新しく出会う人々から「花巻さんって変わっていてユーモアがあるね」とか、時にはストレートに「かおりさん大好き」なんて言葉をかけられたりするうちに、気がつけば私は踏ん張っていた土俵を降りる気になっていて、「自分以外みんな敵」から「自分以外半分くらい敵」になっていたのだった。そうはいっても、まだ「んちゃ砲」も燻っているし、独り相撲のふんどしも締め続けてはいるのだけれど。
右利き社会の中で出会った優しさを素直に受け止めながら、時に怒りを露わにしながら、ありのまま生きている今の自分。人間として不器用だけれど、もしかしたら、右利き社会のことを、ようやく受け止め始めているのかもしれない。それは桜の散る頃に見る、まだ柔らかく新鮮な若芽のようなものかもしれない。
(了)
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第二話 「ミモザの日に添えて」
私が生まれたのは「ミモザの日」。国際女性デーが制定された日である。おそらくこの頃から、この世界は男女平等なるものが叫ばれる時代へと移り変わり始めたのだろう。しかし、どうだろうか? それから五十年近い間、本当の意味での男女平等なんて実現していない。相変わらず女性は差別の対象であったし、声を上げるたびに世界中で抑えつけられてきた。潰されてきた声の中には、人類にとって大変貴重なものも数多くあったはずだ。
そうして今、ようやく時代は変わろうとしている。これまでの変化とは比べものにならない大きな変化だ。誰もが自分らしく生きられる時代、主体的に生きる時代。命名するなら「ゼロ時代」。あらゆるものが崩れた世界で、何もしなければ、何もない。しかし、どんな小さな力でもそこに善き信念を持ち活動を続ける人々には新しい風が吹く時代。今年、民意の時代が始まるのだ。女性は大きく立場を変えてゆくだろうし、これまで日の当たらなかった人々に光が差し込んでくる。私はそれを予感しているし、期待もしている。これまで女性が男社会に進出するためには男のような出世の仕方をしなければ叶わなかったが、それもありのまま、女であることそのもので勝負できる時代を迎えるだろう。
そして私は今、日本左利き協会を始め、マイノリティと呼ばれる人々の世界にも一石が投じられる気配を感じ始めている。前回、左利き物語の最初のエッセイを掲載していただいたところ、目にした方々から多くの反響があり、関心を抱いてもらうことができたからだ。左利きの方はもちろん、多くの右利きの方が左利きのエピソードに共感し、そんなにたいへんだとは思わなかった、知らなかった、左利き協会を知って良かった、などの感想をお寄せ下さったのだ。
また、先日の祖母の葬儀の際には、久しぶりにお会いした親類の皆さんがこれまでになく私の作家活動に興味を抱いてくれた様子で、日本左利き協会のことを話すとすぐにフォローしてくれる方もいた。こうしたことは、これまでは決して起こらない現象だった。
実はこの葬儀の日、私は祖母にお別れの言葉を贈ることになっていたのだが、弔辞を読むその場になって事前に用意した言葉を読み上げるのをやめ、その場で浮かんだこと、その場で本当に言葉にしたいと思ったことを即興で語った。事前に書かれた文章は祖母を言い表すには深みが足りず、嘘になると直感したからだった。葬儀の後、文学には縁遠いはずの親戚の皆さんが、今どこで何を書いているのかさかんに声をかけてくれた。私は嘘でないことが人の心に伝わる時代の到来を感じた。左利きについても、もっと書いていける、伝えていけると感じたし、伝わるとも感じた。きっとこれからは民衆の文学が花開く時代になっていく。不思議にそう実感できるのだ。国際女性デーの締結の日、ミモザの日に生まれた私には、何かこの世で成し遂げたいことがあるのかも知れない。
たとえエッセイを綴るというささやかな行為でも、地道に取り組んでいけば少しずつでも社会を変えていくことができる。私たちをとりまく新しい空気に触れながら、私はある手応えのようなものを感じ始めている。新しい時代の右利き社会は、きっと左利き社会を変えていけるだろう。
三月八日「ミモザの日」。左利きの方を始めとする多くのマイノリティの方たちに、ミモザの花言葉「友情」を贈りたい。
(了)
第一話 「左利きの日に纏わる物語」
子どもの頃から左利きというマイノリティが現代くらい認識されていたなら、私の左利きの人生や物語も変わっていただろう。同時に、私自身の生きづらさも違っていたはずだ。無論、現在の社会においても、あらゆる物やデザインや書籍でさえも、左利きに対し、ある一定のストレスを感じさせ続けているのだが。
右利き社会の中で左利きであることの不便さを語るとき、私はどうしても、子ども時代の話をしなければならない。私は、祖父母と血の繋がらない家庭に生まれた。祖父母はそれぞれに優しくもあった。けれど、大正生まれの彼らには珍しくない偏見の眼差しも持っていた。そんな祖母が数日前、九十七歳で急逝した。
ちょうどこのエッセイを執筆しようという矢先に祖母が他界し、昔のことがたくさん思い出された。エッセイを書くために今思い出させられたような気がした。
祖母は私のことをギッチョマンと言ったことがある。とある別のマイノリティを抱える友だちを家に連れてきたとき、二度と連れてくるなと言われたこともある。彼女にとって、私や友人は異質に映ったのかもしれない。あるいは、一般的ではないものに対しての単なる偏見かもしれないし、知らないものへの不快感だったのかもしれない。こうした不愉快な思い出について、祖母に突っ込んで尋ねたことはなかったから、実際のところ彼女が何をどう考えて差別をしていたのかは分からないままだ。
いずれにせよ、私は本来安心できるはずの自分の家の中で揶揄されて育ち、学校でも先生や同級生たちにギッチョマンとかブキッチョなどと揶揄されて過ごしていた。何故こんな辛い世界を生きているのだろうと思った。気がついたらこの世に生まれ落ち、物心ついた頃には、偏見があった。
(きっと、意味があるはずだ)
自問自答する中で、私は心の中で繰り返しそう呟いていた。意味があるはず。そうでなければ納得ができない。
私は覚えている。小学五年生の学校の帰り道、私は所々雲が浮かんでいる青空を見上げた。
(きっと、意味があるはずだ)
私はこのときも同じことを呟いていた。そうしてそのあと、母の運転する車の助手席で谷村新司の『昴‒すばる‒』を聴いた。なんとなく流れていた曲だった。誰にも相談できない苦しみに一人耐えていた十歳の少女は、『昴‒すばる‒』を聴いて、唯々涙を溢れさせていた。
時が流れ、大人になった私は偶然にも集英社の「すばる文学賞」でデビューを果たした。そのとき、あの曲を強烈に思い起こした。人生は、誰にとっても物語であり、誰もが主人公であるという信念が私にはある。きっと意味がある。確かに意味があった。年を経て、今は日々それを実感できる。
この度私は日本左利き協会でエッセイを執筆させて頂くことになった。
(きっと、意味があるはずだ)
子供の頃から唱え続けてきた言葉が無意識に呟きとなる。左利きの私は、日本における左利きの日に、皆様にこの最初のエッセイを贈ろうと思う。今後いったいどんな物語を綴ることになるのか、私自身も楽しみにしていきたい。
さて、余談だが、祖母は他界する前、苦しそうに息をしていた。私が両手を差しだすと、彼女は私の両手を握り返した。右手でも左手でもなく、両手が両手を握っていた。そこに言葉はないけれど、愛を感じた。祖母は孤独を知っている人だったと感じた。介護施設の人たちには、いつも両手で、ありがとう、ありがとう、と手を合わせていたという。
(きっと、意味があるはずだ)
これもまた、祖母と私のひとつの物語。そうしてまた、私の新しい物語が始まっていく。
(了)
[花巻かおりさんのプロフィール]
静岡市在住。2008年「赤い傘」で第32回集英社すばる文学賞佳作を受賞。小説執筆の傍ら散文やエッセイ、詩の創作も行う他、演劇や朗読劇の原作も手掛ける。2021年より公開され、まったく新しい上演形式で反響を呼んでいる「Mobile Theatre 回遊型体験演劇」では、第1作「天空の謡・大地の書簡」、第2作「Lost words ~星の言葉と赤い糸~」で原作・原案を担当。深いテーマ性を持つ独特の世界観が高い評価を得た。また、仕事や生活に活かせる占星術が特技。それを活かしたオンラインカウンセリングをしている。
https://www.spinart.jp/artists/hanamaki-kaori.html