第七話 「静かな夜が降るまえに」
※「♢」のからが後編となります。
第一話から第六話は第七話に続いて掲載しています。 

 
 私は今、太郎さん夫婦と暮らしている。
 二人との暮らしは穏やかだ。今日も私は三人分の朝食を作る。シラスと葱入りの卵焼き。南瓜のそぼろあんかけ。茄子の浅漬け。あおさと豆腐の味噌汁。炊き立てのご飯の匂いが台所に満ちる。
 
「アキは料理が上手ね」
つゆ子さんが食後のお茶を啜りながら言う。老眼鏡をぐっと下げて新聞を読んでいた太郎さんも、こちらを見て微笑む。私も静かに微笑み返す。
 洗濯物を干し終えたつゆ子さんと家中に掃除機をかけた私が縁側でくつろいでいると、庭で菊の手入れをしていた太郎さんが振り返って言った。
「みんなで散歩に行かないか。ついでに神社の横の亀屋で、昼めしのいなり寿司でも買おう」
「それはいいわね、お父さん。アキもあの店のおいなりさん、好きだものね」
「ええ。刻んだ生姜の入ってるのが一番好きです」
太郎さんとつゆ子さんは、顔中に笑顔の皺をたくさん作って何度も頷いた。
 隣の家の浜野さんが、垣根の向こうから私たちをじっと見ている。私と目が合うとすかさず逸らして伏せる瞳が、好奇と恐れと憐れみを物語っていた。
 
 私には自分の過去の記憶がない。
 どこに住んでいて誰と何をして生きていたのか、何ひとつ思い出せない。「オオハラアキ」という名前と背中の大きな火傷跡以外は、何も持っていない。記憶をなくしたことと火傷跡に関係があるのかも分からない。私は現在進行形の中でだけ生きている。
 太郎さん夫婦が私と本当の親子ではないということは、分かる。ふたりは私と一緒に住み始めた時期も理由も語らず、ただここにいて、ゆっくりとした時の流れに寄り添っている。
 過去を思い出そうとすることは、底なしの闇穴を覗き込むこと。私がそこへ引き摺り込まれずにいられるのは、太郎さんの穏やかな声とつゆ子さんの温かい微笑みのおかげだ。
 同じことを繰り返す日々に私は安心する。それでも時々、頭の中の渦巻きが勢いを増して轟々と高鳴る。そんな時、私は占い師の元へ足を運ぶのだ。根っこのない私の人生も案外悪くないと、思える言葉が欲しいから。私は自分の誕生日を知らないから星占いは無理。名前の音や夢占い、手相で占える場所を探しては、ひっそりと訪れていた。
 
「左手は生まれ持った運命をみるための手よ」
甘ったるいお香の匂いが漂う小部屋で、その占い師は言った。恐る恐る差し出した私の手を取り、感情線や生命線をすぅっとなぞる。
お茶がすっかり冷めるくらいの時間、眉間に皺を寄せて手相を見ていた占い師は、やがてふわりと表情を緩めた。
「簡単に言うとね、あなたは超恵まれてるの」
それからこちらに顔を寄せて声を一段低くした。
「最強よ、あなたの手相。こんなにすごい手相は徳川家康以来ね」
徳川家康。まるでその人の手のひらを見てきたかのように、占い師はきっぱりと言い放った。私がぼんやりしていると彼女は、あらあら歴史上の有名人よ知らないの?まあいいけど、と言って肩をすくめた。
「左手の手相を見る限り、あなたは生まれつき運に好かれてる。そういう星のもとに生まれたのだから受け入れなさいな」
こんなにも不甲斐ない私が、運に好かれているだなんて。
「自分は最強なんだって気づいた時から運命は回り出すものよ。自分の運を信じなさい。天は必ずあなたの味方をするわ」
立ち上がって微笑んだ占い師には、どんな私が見えていたのだろう。
 
 風呂上がりの脱衣所で、振り返った鏡に私の背中が映った。後ろ首から腰の辺りまで、皮膚が赤黒く波打っている。何かわからない生き物が張り付いているようだった。それは過去を思い出すことを催促していた。
 雨降りが続く時には背中がしくしくと痛むこともあるけれど、日常では自分が悪夢を背負っている事など忘れている。こんなに酷い火傷を負ったのに何ひとつ自分のことを覚えていないのは、心のバッファが効いているからだろうか。
 痛手を背負いながら、私はなぜ生きているのだろう。私の中の渦巻きは大きくなったり縮んだりを繰り返しながら、決して消えることなく私の内側で回転し続けていた。
 



「アキ。ちょっと手を貸してくれない?」
陽当たりの良い部屋で本を読んでいると、つゆ子さんが毛糸のかたまりを持ってやってきた。それは太郎さんの古い生成色のセーターをほどいたもので、別の何かを編むつもりらしい。くしゃくしゃの毛糸を、使い易いように纏めるのだという。
「毛糸を束ねるのは、ひとりじゃできなくて。
両腕を少し曲げたままこっちへ出して」
私が左右の腕を前へ出すと、つゆ子さんはその間に毛糸を張るように巻きつけていった。私の腕の間を何度も行き来する毛糸が、束になってだんだん太くなってゆく。
「ふたりあやとりをしてるみたいでしょ」
「腕が暖かくなってきて、ちょっと楽しいです」
「アキは、あやとりしたことあるのかしら」
「どうでしょう、覚えてないです。でもあやとりという遊びはわかります」
そう答えたあとで急に申し訳ない気持ちになって、私は小さな声で、ごめんなさい、と付け足した。
「謝らなくていいの。私こそごめんなさいね」
正面に座るつゆ子さんは、毛糸をほぐしながら私の腕に巻きつけ続ける。
「あやとりをする時って、次に相手が作るものを思い浮かべながら紐を掛けていってると思うの。川ばかりじゃつまらないだろうから、次は梯子にしようとかね。それで時々自分の知らない形が出来上がったりもして、へえって思う。あやとりで心もやり取りしてるのね、きっと。どんどん心を重ねて編んで、お互いの間に橋ができるの」
つゆ子さんが毛糸を巻きつけ易いように、私はわずかに腕を交互に前へ差し出しながら、耳を傾ける。
「アキ。何も諦めないで。人と関わることも、幸せになることもね。この世界はアキが思うよりいいところよ」
「私は今のままで幸せですよ。つゆ子さんと太郎さんと、ずっと一緒にいられればそれだけで」
「でも私たちは、あなたより先に逝くことになるだろうから」




 あれはまだ暑さの残る季節のことだった。
 何か読むものを借りようと、私は太郎さんの部屋に足を踏み入れた。メモ紙やボールペンの散らばる文机の上の本を手に取ると、間から手紙がはらりと落ちた。その開いた文面に、私の視線は吸い寄せられた。記憶喪失。補導委託。保護司。それらが何を意味しているのか、太郎さん夫婦のことを指しているのか、私には分からなかった。分からないのに私の指は小刻みに震えだし、熱い空気に溺れてうまく息が吸えなくなった。窓の外でうるさく鳴き喚く蝉たちが、私を責め立てていた。
 私は手紙を元の場所にそっと戻すことしかできなかった。




 毛糸を綺麗な束の輪にし終えたつゆ子さんは、
私の顔を覗き込むようにしていった。
「アキに何か編んであげましょうね。マフラーがいいかしら。それとも帽子?」
「帽子が欲しいです。つゆ子さんは手先が器用ですね。なんでも作り出せるつゆ子さんの手は魔法の手です」
「こんなに皺くちゃだけれどね」
つゆ子さんは自分の手の甲を眺めて、照れたように笑った。可愛いひと。
「お父さんのお古で申し訳ないわ。でもね、くしゃくしゃな毛糸でも、新しいものに生まれ変わらせてあげることができるのよ。アキに似合う帽子を編むわね。てっぺんに黄色いぽんぽんをつけてもいい?」
「はい。太陽を頭にのせてるみたいでいいですね。黄色くて暖かいものが好きです」
「アキにぴったりね。あなたは私たちに明るさをくれたのよ。お父さんとふたりきりの暮らしを、アキが照らしてくれたの。ありがとう」
つゆ子さんのかさかさした手が、私の手にそっと触れた。なによりも優しい手ざわりに、不意に涙がこぼれた。
「帽子、楽しみにしてますね」
私がそういうと、つゆ子さんは子どものような笑顔になって頷いた。

 痛くて悲しい出来事があったとしても、私はこうして生きて優しい人たちに見守られている。それがどれほどの幸運なのか、過去との相対でしか感じられないならば、私は不幸だっただろう。過去よりも、誰かよりも、今の方が幸せか不幸せか。比べるものを持たない私は瞬間の中で息をし続ける。
 「かもしれない」の檻に囚われた私にとって、ここでの暮らしだけが真実だ。この先もずっと真実だけに灯りをともして、老いてゆくふたりの杖となって生きてゆく。最初からこのかたちで生まれてきたのだと信じればいい。
 自分の左の手のひらを見つめる。
 あの時の占い師は、誰に対しても最強の手相だと告げていたのかもしれない。悩める者に希望を授けることが彼らの仕事なのだから。それでも占い師の言ったことは当たっている。今の私は世界で一番強運なのだ。私が何者であっても。ここにある暖かい部屋が、窓からの光が、私にそう教えていた。

 日向の匂いのする乾いた洗濯物を畳む。太郎さんとつゆ子さんのシャツやセーターがお行儀よく並ぶ。その隣に私のブラウスも置く。
 窓の外の空は、やわらかいオレンジ色に染まり始めていた。今日の夕食は何にしよう。太郎さんとつゆ子さんの好きなものがいい。
 静かな夜が降るまえに、私はふたりのために今出来る、いちばんささやかなことをする。私が作る食事であの人たちを守るのだ。当たり前のように私に手を差し伸べるふたりへ、この先も心と体を温める美味しいものを作り続けてゆく。
 厳かな儀式のように、火を入れる。
鍋の中で泳ぐ野菜たちに、今夜もたっぷりと愛情を煮含めるのだ。




 

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第六話 「新しい空と光のなかで」
※第一話から第五話は第五話に続いて掲載しています。 

 
 新しい年の最初の太陽が笑っている。
 鳥居の下で深呼吸しながら見上げた空は深くて、風に揺れる白い紙垂が吸い込まれそうだ。ひんやりした空気に、背すじがしゃんとする。
 ここから始まる手つかずの毎日が、眩しく光り輝いてゆく予感に満ちている。
「お兄、こっちこっち」
真由が手招きすると、県外の大学寮から帰省したばかりの雪彦が、待ち合わせ場所のずんぐりした狛犬の横にやってきた。
「あけましておめでとう」
「今年もよろしく」
「二年越しのあけおめだね」
「ああ。去年は喪中だったからな」
パパの言葉に子供達は一瞬しんみりとしたけれど、小さな微笑みで返した。
 真由は六つ歳の離れた雪彦が帰ってきたことが何しろ嬉しいらしく、お土産はあるのか、それは一体何なのかとじゃれついている。昔飼っていたコーギー犬のりりぃにそっくりだ。きゃいん。
 鬱陶しそうな顔をする雪彦も、本当はまんざらでもないのだろう。実家暮らしの頃の雪彦は、塾の帰りが遅い真由をすすんで駅まで迎えに行くほど、小さな妹をなにかと気にかけていたのだから。
 口数の少ないパパをうまく会話に巻き込むのは、今日も真由の係だ。真由の無邪気な笑い声が、どれほど家族を照らしてきたことだろう。その屈託のなさに私もずいぶんと助けられた。
 愛おしい顔が並ぶ、年の始め。私の心も晴れやかだ。お正月っていいな。今日ばかりは時間もゆっくりと流れ、そぞろ歩く人達の表情も和やかだ。
 初詣の列に並ぶ三人よりも一歩後ろから、私はついて行く。パパと雪彦と真由。高さの揃わなかった身長の山なみが少しなだらかになっているのを見て、胸がいっぱいになる。
 楽しくても悲しくても、いつのまにか体は大きくなってゆく。私が作った料理を食べて、栄養を吸収して、家族の体はできていった。それは私の誇り。常に明日の方を見ている子供達は、もう背丈なんて伸びやしない私を優に超えてゆくのだろう。それは少しも寂しくはなく、頼もしくて安心できること。
 そんなことをあれこれと思いつつ他愛もないお喋りに耳を傾けていると、ようやくお賽銭箱の前に辿り着いた。本壺鈴の七色の鈴緒を掴み、がしゃがしゃと鳴らす。手を合わせる三人の隣りで、私もそっと目を閉じる。


 小学校へ上がる前の真由が、その年の初詣で話したことを思い出していた。
 葉っぱのように小さな手を合わせて拝んでいた真由は、目を開けると私を見上げて言った。
「右のおててと左のおてては仲良しだね」
「そうね。ふたつを合わせると強くなるね」
「どうしておててをひとつにするのか、わかったよ」
「そう?じゃあママに教えて」
「右のおててと左のおててのあいだに、宝ものがあるの。それを落とさないようにしてるんじゃない?」
「あら、すてきねえ。真由のおてての中の宝ものってなあに?」
「それはね」
そう言ったきり、真由は宝ものの正体を教えてはくれなかった。うまく説明する言葉をまだ知らなかったのだと思う。あの時の真由の澄んだ瞳を忘れはしない。


神様。
今年も家族が幸せに暮らせますように。よろしくお願いします。真由は冬の朝の霜柱のような子で、お転婆に見えても本当はすぐに溶けたり砕けたりしてしまうのです。でも繊細さはあの子の大切な部分。ザクザク踏まれても、翌朝にはまた伸びる強い霜柱になれるよう導いてください。それから雪彦。雪彦は野鳥観察が好きです。鳥を追いかけて深い山の中へも入って行きます。雪彦にとっての青い鳥を探しているのかもしれません。あの子が道に迷わぬように見守っていて下さい。それからパパ。パパはみんなのためにご飯作りを買って出てくれるけれど、実はものすごく不器用なのです。包丁で指を切ったりしないように見張っていて下さい。玉葱を切ると驚くほど速やかに泣きます。悲しいからじゃないよ玉葱のせいだよ、なんて言いながら泣くのです。もう誰かのために泣いたりせずに暮らしていてほしい。それからどうか愛するこの人達を私にも守らせてください。私の右手と左手の間に宿る宝ものは、今ここにあります。
それから。
それから。


「お兄は神様に何をお願いしたの?」
沿道の屋台で雪彦に買ってもらったチョコバナナを食べながら、真由が聞く。
「今年一年、食いっぱぐれることなく暮らせますように、かな」
「何それ。お兄らしいや」
真由が大きな口を開けて笑う。雪彦とパパもその顔を見て笑う。
「母さんが作るお節料理の煮しめ、食べたかったな」
そうだった。雪彦は里芋と筍の煮しめが好物だった。作れなくてごめん。
 パパが真由にさりげなく自分のマフラーを巻いてやっている。それはパパの誕生日プレゼントにと私が編んだものだ。真由を包むパパの優しい目尻の皺。それを私は今も愛している。
 笑顔がたっぷり循環するのを見届けたところで、私はそろそろ帰ることにした。
 ほんの一瞬強い風が吹き、紙垂がひらひら舞った。
「あ、ママだ」
空を見上げる真由と目が合った、気がした。
「やっぱり来てくれてたんだ」
パパと雪彦も顔を上げて空を見た。
「最期に病室でママと話した時、初詣は家族みんなで行きたいって言ってたもんな」
パパの言葉に、私は濡れる頬をぐしぐしと拭う。
 みんなの視線は透明な私を通り越して、ぽっかり漂うあの白い雲をみているのだろう。
 青空よりももっと先の、未来の光を見て。
日光が好きな植物のように、明るい方へ両手を伸ばしていって。指先はいつか暖かさに触れるから。
 じゃあね。
 私はいつもどこにでもいるわ。
 三人の頭上をひとまわりしたあと、新しい風が吹く初春の青い彼方へと、私は昇っていった。

 

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第五話 「Season's Greetings」

 
  裸木が立ち並ぶ通りを歩くと冬の匂いがした。乾いた風が足元に小さな渦を作ってはどこかへ去ってゆく。初めて訪れた神戸の街は私に無関心で、そのことがかえって私を安心させた。
 カフェを出てから冷えてしまった両手を暖めたくて、コートのポケットから手袋を取り出す。右手にモヘアのミルクティー色の手袋。左手にはざっくりした毛糸編みの赤い手袋を。左右ばらばらの手袋を眺めてから、私はまた歩き出す。


❄︎

「手袋を片っぽずつ交換しようよ」
「え、今なんていった?」
あの時メイは笑いながら私の顔を覗き込んで、
もう一度繰り返したのだった。
手袋を、片っぽずつ、交換しよう。
良いことを思いついた時のメイの瞳は、きらきら輝く。
 あの日も寒かったはずなのに、思い出は今も暖かいままだ。


 初めてメイと言葉を交わした去年の冬の朝のことを、私は忘れない。
 昇ったばかりの太陽の光さえ凍る早朝の駅。
 仕事へ向かう電車待ちの人々は、私の同志だった。厄介事や繰り返しの日常を乗り越えて、闘ってゆく同志。毎日のように同じ駅で同じ時間に顔を合わせていると、不思議と仲間意識が芽生えるのだ。いつもあるはずの顔が見られないと、今日はどうしたのかなと気にかかる。
 ひどい風邪をひいて1週間仕事を休んだ翌日が、小さな奇跡の始まりの日だった。
「風邪ひいてたのかな」
背中越しの声に驚いて振り向くと、寒さで頬を赤くした女の子が心配そうに私を見ていた。
 メイです、とこれまた唐突に彼女が自己紹介したので、私も慌てて、茜です、と軽く頭を下げた。
「そうなんです。風邪で休んでました」
「やっぱり。最近ガクンと寒くなったものね。もう大丈夫なの?」
「ええ。喉はまだ少し痛むけど、咳はおさまったから」
私がそう言うと、メイは安心したように笑った。笑った拍子に漏れた白い息が、メイの笑顔をぽわっと包んだ。同志だと思っていたのは、私だけではなかったのだ。
 その日を境に私達は、ホームに入ってきた電車の轟音で声がかき消されてしまうまで、たくさん話をした。ふたりには共通点が幾つもあった。26歳。三姉妹の末っ子。左利き。羊文学が好き。和菓子が好き。寒くても冬が好き。
 離れた列にいても私はメイを見つけたし、メイも遠くから口の動きでおはようと言ってくれた。それからとびきりの笑顔。メイの笑顔を見ると勇気が湧いてきた。今日もきっとうまくいく。そんな気がした。光の速さで打ち解けた私達は、もしかして生き別れた双子の姉妹?
 少し前まで全く交差することのなかった人の人生を、私は手繰り寄せていた。

 そんなささやかで必要な朝の日課は、突然ぷつりと途絶えることになった。
 ある朝メイは静かな声で言った。
「実家に帰ることになったの」
俯くメイの横顔に、初めて見る寂しさが揺れていた。私はメイの何を知っていたのだろう。
「いつ戻る?」
「ワカラナイ」
メイのいない毎日をうまく想像できなかった私は、そうなんだとしか言えなくて、メイをがっかりさせたかもしれない。
 その日は冬一番の冷え込みで、メイの赤くてぽってりとした手袋はいかにも暖かそうに見えた。手袋自身が熱を生み出しているような。
 ぎこちなさを振り切るように
「その手袋の中で冬眠したいな」
と私が言うと、メイはクスクス笑った。
「どんぐりをたくさん拾って詰めておこうかな。そしたら茜をこの中で飼うよ」
ほら、あったかいでしょう、とメイが私の頬に触れた。手袋越しにじんわりとメイが伝わってきた。
「ねえ、手袋を片っぽずつ交換しようよ」
メイは左手にはめていた手袋を外して、私にぐいっと差し出した。本当に?と恐る恐る受け取ると、メイは、茜の手袋もさあさあ、と迫ってきた。お互いの体温が残る手袋と自分の手袋をそれぞれの手にはめて、変なの!でも楽しい!と顔を見合わせて笑った。
 先に電車を降りた私に、メイは手袋をはめた手をちぎれるほど振った。それきり私達は、はなればなれになった。


 毎朝の駅でしか会わなかった私達を繋ぐものは、手袋以外に何もなかった。連絡先の交換もしなかったし、休日に待ち合わせて遊びにいくこともしなかった。明日になりさえすればまた会えると思っていたから。
 まわりを見渡すと、駅での顔ぶれは少しずつ変わっていた。目の前に伸びるレールは枝分かれして、同じ電車を待っていた人達は皆、それぞれの目的地へ向かっていった。
私はこっちへ、あなたはそっちへ。
さようなら。健闘を祈るよ。
 いつかまた巡り逢いたいのなら、行き先を伝え合えばよかった。レールが分かれてしまう前に。
 メイのいない駅はいっそう寒くて、風に晒されて佇む私は人の群れに埋もれていても孤独だった。赤とミルクティー色の手袋をしたメイの姿を、無意識に探していた。そのたびに私ははっとして立ち尽くし、ため息とともに空を見上げるしかなかった。



❄︎

 今年の冬の神戸は殊更に寒いのだと誰かが言った。クリスマスに色違いの手袋をする不思議な旅行者の私を、街は咎めない。手袋に顔を埋めると、まだかすかにメイの匂いがした。それは冬の匂いでもあった。
 冬眠したのは私ではなくてきっとメイの方だ。今ごろメイは遠い街にある公園の木の洞で、ふっくらとした落ち葉に潜り込んで眠っているのだ。赤い手袋をおなかに乗せて、私のミルクティー色の手袋を枕にして。
 メイ。大あくびをして冬眠から目覚めてよ。そうしてまた私の前に、おはよう、と現れてほしい。もう一度ふた組の手袋が揃う日まで、春も夏も秋もポケットに忍ばせて歩くから。
 神戸港の水面に映る観覧車の光が、さざなみの中で滲んでいた。ふたつでひとつを成すものの片割れを無くした宙ぶらりんな気持ちが、暗い海に潜る。面影を探さずに済む場所を求めて見知らぬ街へやって来たのに、気づくと私は幻を追っていた。
 
 通りの先の大きなクリスマスツリーは、賑やかな人波の向こうで道しるべのように光っていた。暖かい聖夜になるといいね。ツリーを見上げる皆 の横顔ひとつひとつに思う。
 その中のひとりの女の子の姿に、私の呼吸は一瞬止まった。遠目にも白い頬。少しツンとした鼻先。星を宿す瞳。イルミネーションの煌めきに見惚れ少し微笑んでいる。
 よく見てよ、あの子を。
 速まる鼓動を落ち着かせるように胸に手を当て、小走りにカツカツ近づく。道ゆく人達が何事かと両側によけるので、モーゼみたいに私は譲られた道の真ん中を堂々と進んだ。
 私のうるさい靴音を聞きつけて、女の子がこちらを振り向いた。大きな目をいっそう見開き驚く顔を見て、私は自然と笑ってしまう。
 女の子は鞄を足元にどさりと置くと、ぴかぴかの笑顔だらけになって私の名前を呼んだ。
「茜?ほんとにほんとに茜?」
メイが赤とミルクティー色の手袋をした両手を、高々と掲げた。それはツリーのてっぺんの星より輝いていた。手袋達もきっと再会を願っていたのだろう。だからお互いを呼び寄せたのだ。
 ああ私、こんなにも会いたかったんだ。
メイに話したいことが山ほどある。1日じゃ語り尽くせない。まずは何から話せばいい?
「メリークリスマス、メイ!」
今度こそ、同じ行き先のレールを辿っていこう。
 クリスマスソングの流れる金色の街で、メイの色違いの手袋に手招きされた私は、その笑顔をめがけて全力疾走した。



 

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第四話 「月夜の森の物語」
※第一話から第三話は第四話に続いて掲載しています。 

 
蒼い月夜のことでした。
ヲヲイは森のまんなかで、草笛を吹いておりました。木々の間を流れる音色に、夜の獣や草花たちは緩やかに身をまかせて踊っていました。
 突然、子どもの泣き声が森にこだましたので、ヲヲイは驚いて辺りを見回しました。
 おや、見知らぬ男の子がひとり、樫の木の根元にしゃがんでいます。
「秋まつりはどこ」
男の子はおずおずと尋ねました。
「ここはただの暗い森だよ。おまつりはやってない」
「笛の音がしたからこっちだと思って」
「僕が吹いてたんだ」
「ひとりで来ちゃった。帰り道もわからない。おかあさんに叱られる」
そう言って男の子は泣きじゃくりました。
 ヲヲイはおろおろして、男の子を笑顔にできることはないかと一生懸命考えました。そして、カラスウリの白い花をほどいて帽子を編んであげることにしました。男の子の頭に帽子をのせると、雪洞のように淡く光りました。男の子は少し笑いました。
「名前はなんていうの」
「コウタ。きみは」
「ヲヲイ」
「変なの。目の色も変わってるね」
コウタはヲヲイの紫色の瞳をじっと覗き込んできました。ヲヲイは恥ずかしくなって目を伏せました。
「頭の上のふたつのとんがりは耳?」
「違うよ。ツノだよ」
「ツノがあるんだ」
「うん。悪魔だからね」
「ふうん」
「耳はここ」
ヲヲイは顔の両脇にある丸い耳を引っ張っておどけてみせました。コウタはキャキャっと笑いました。
 コウタはまじまじとツノを見て、小さな声で言いました。
「ちょっとツノにさわってもいい?」
ヲヲイはコウタがツノに触りやすいように、少しかがんで頭を下げました。
「掘りたてのたけのこみたい」
コウタはヲヲイのツノをやさしく撫でました。
「なあんだ、ちっとも怖くないや。おかあさんは悪魔は怖いものだって言ってたけれど」
ヲヲイはくすぐったい気持ちになって、思わずスキップをしました。コウタもその後に続きました。
 あれれ。ヲヲイは自分の胸に手を当ててみました。何だかココがほかほかする。  それからふたりは森の中で遊びました。かけっこをしたり、蜘蛛の巣の籠に花を集めたり。
「コウタはずっとここにいたらいいよ。おなかがすいたらいっしょに木の実を食べよう」
ヲヲイは近くの木に登って、橙色のもちもちした実をもいできました。厚い皮をむいて半分に割り、片方をコウタの手のひらに乗せました。
「冷たくて甘くてじゅわっとするね。今までに食べたどの果物よりもおいしいや」 「この森にいれば、毎日食べられるよ」
ふたりは木によじ登り、たくさんの実をかじりました。高い木の梢から、遥か遠くに人間の街の灯りが見えました。コウタは気づいていないようです。ヲヲイはコウタの気を逸らすように、月を指差しました。
「見てごらん。月が近い」
「ほんとだ。月にさわれるかも」
コウタとヲヲイは交互に枝の上で飛び跳ねて、月に向かって手を伸ばしました。コウタは息を弾ませながら言いました。
「こんなに楽しいのは初めてだよ」
ヲヲイにとっても初めて知ることばかりでした。
おいしいものを分け合うとさらにおいしくなること。誰かといっしょに遊ぶと心に羽根が生えること。それと同時に、自分はやっぱり悪魔なのだという思いが、ひたひたと胸の内に波打つのでした。
 月の光がヲヲイのすべてをきっぱりと照らしていました。

 空は徐々に淡くなっていきました。月は白く、のっぺりとしています。朝が来たのです。
 その時、森の入り口の方で女の人の声がしました。空気を切り裂いてまっすぐ進んでくる声でした。コウタの名前を呼んでいるようです。
「おかあさんだ」
コウタはホオヅキの実で遊んでいた手を止め、声のする方を振り向きました。
「おかあさんに会いたいの?おかあさんはきみを叱るかもしれないよ」
ヲヲイはコウタの正面に立って言いました。
「叱られても会いたい」
コウタはヲヲイの横をすり抜けて、声のする方へ駆けていきました。
「おかあさああん」
女の人はコウタに気づくと、涙を流しながらひざまづいて抱きしめました。コウタの足元に萎れたカラスウリの帽子が散らばりました。
「三年間毎日探したのよ。森には近づかないでってあれほど言ったのに。もう二度と離さない。愛してるわコウタ。さあ帰りましょう」
女の人はコウタと手を繋ぐと、森の外の世界へずんずん歩いて行きます。
「ごめんなさい。でもヲヲイがいたから怖くなかったよ」
「ヲヲイ?」
「僕の友だち。おかあさんも仲良くなれるよ」
女の人は戸惑いましたが、コウタがぐいぐい手を引っ張るので、森の入り口まで用心深く戻りました。
 女の人はそこで、森に棲む小さな悪魔に会いました。そしてその紫色の瞳を見据えました。
 なんて暗い目。この森の闇と同じ色だわ。それにあの禍々しいツノは。この子が私のコウタを三年も隠していたのね。
 女の人の燃える視線が、ヲヲイの心を焼きました。
「ヲヲイ、帰るね」
コウタが握手をしようとすると、女の人は息子に微笑みかけながら言いました。
「コウタ。左手を出すのよ」
コウタは言われるままに左手を差し出しました。ヲヲイはその手を握り返しました。
「さよなら、コウタ」
「じゃあね、ヲヲイ。また帽子を編んでね」
「カラスウリの花は一晩しか咲かないんだ」
「じゃあ他の花で編んで。約束だよ」
ヲヲイは森のはずれに立ち、女の人とコウタが遠ざかってゆく背中をずうっと見つめていました。ふたりの姿が朝の光に溶けてしまうまで。
 バイバイ、初めての友だち。
 左手の握手は永遠のさよならの印。
外の世界の眩しさは、森の記憶を消すでしょう。
 左手は悪魔の手なんだって。
 世界を旅する渡り鳥からそう聞いたことがありました。
 だから握手の時に左手を出しちゃあ駄目なのさ。もう二度と会いたくないなら話は別だけどね。
 ヲヲイは自分の両手をぎゅっと握りしめました。
 僕は悪魔の手しか持ってない。
 約束なんてはじめからできないんだ。
 コウタのやわやわとした温かな手を思い、ヲヲイの頬をころころと涙が転がり落ちてゆきました。カラスウリの蔓がヲヲイの腕にやさしく巻きつき、葉っぱでそっと涙を拭いました。
 静かな草笛の音色が、低く深く森の奥へと流れていきました。
 

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第三話 「Man in the mirror」

 

「怖い話をひとつしようか」
残業終わりの休憩室で
珈琲を飲みながらひと息ついていると、
神崎先輩がそんなことを言い出した。
どうしてそうなったのか、
成り行きは思い出せない。
夏の夜だからだろうか。
神崎さんは業務日誌を書いていた手を止めて
話し始めた。



ある夏の晩のこと。
高校生の姉妹がリビングで寛いでいた。
姉は風呂上がりの濡れた髪をタオルで拭きながら扇風機の風に当たり、
妹はソファの上に寝転がって
友達から借りた漫画本を読んでいた。
その日、両親は1泊旅行に出かけていたので
二人きりだった。
つけっぱなしのテレビが
ニュースを垂れ流している。
3年ぶりに開催された祭りの話。
食料品140品目が値上げになる話。
若い女性を切り刻む殺人犯が逃亡している話と、
右頬にハートのタトゥーがある
その男の公開写真。
明日は天気が崩れて雨になるという予報。
いつもと変わらない暑い夜だった。
姉は鏡に向かい
ドライヤーで髪を乾かし始めた。
そして髪を指で梳きながら妹に声をかけた。
「由香。アイス買ってきてくれない?」
妹は漫画本から顔を上げずに返事をした。
「自分で行けばいいじゃん」
「私はもうお風呂に入っちゃったの。
また服に着替えてコンビニに行くなんて
ダルいのよ」
姉はチラリと妹を見た。
妹は完全に姉の話をスルーしている。
「ねえ、暑いからさ、アイス。
アイスがどうしても今すぐ食べたいの。
由香の分も奢ってあげるから」
「えー、めんどくさい。
あのコンビニ遠いんだもん」
「いいから早く行ってきてよ!」
姉が語気を強めて財布を放ってよこしたものだから、ついに妹は漫画から視線を上げて姉を見た。
姉は何に苛ついているのだろう。
こういう時の姉はなかなか厄介なのだ。
言うことを聞いておいた方が
後々面倒なことにはならないだろう。
そう考えた妹は
わざとらしく大きなため息をつくと、
立ち上がって姉の財布を拾い玄関へ向かった。
「一番高いアイスを買うからね。いいよね?」
そう言い残して荒々しくドアを閉めて、
妹は出ていった。



神崎さんはそこで体を前に乗り出し、
私の顔をじっと見た。
「お姉さんはどうして急にアイスが食べたいって言い出したんだと思う」
「お風呂上がりで暑かったからですよね」
神崎さんは一瞬下を向いて、
ふっと息を漏らした。
「お姉さんは、
髪を乾かすために見ていた鏡の中に、
とんでもないものが映っていることを
知ってしまったんだよ」
「とんでもないもの、ですか」
「そうだ」
もしかして、やっぱりあれだろうか。
「もしかして、幽霊ですかね」
「いや、そうじゃない」
神崎さんは唇の端を歪めて言った。
「右頬にハートのタトゥーがある男さ」
「えっ、どういうことですか」
「テレビニュースの中で
そういう話題があったでしょう。
右頬にハートのタトゥーがある殺人犯が
逃亡してるって。
この姉妹のいる部屋に、
そいつが忍び込んでたってわけだよ」
私の体じゅうのうぶ毛がぞわりと立った。
「それに気づいたお姉さんは、
妹を逃すためにひと芝居うったんだ」
「その後、お姉さんはどうなったんですか」
神崎さんは肩をすくめて頭を左右に振った。
休憩室の温度が急に下がった気がして、
私は自分の肩をさすった。
テーブルの上のリモコンを取り、
エアコンの設定温度を2度上げた。
「この世で一番残酷で恐ろしいのは
人間なんだよ」
神崎さんはそう言うと
日誌の続きを書き始めた。
私は暗闇に取り残された子供のように、
心許ない気持ちになった。
珈琲はすでに飲み終わってしまった。
日誌を書く神崎さんの前髪がさらさら揺れる。
ボールペンが紙の上を滑る音が聞こえる。
その時、私はある異変に気づいた。



神崎さんは左利きだった筈だ。
文字を書くのも箸を持つのもすべて
左手でしかできないと、
苦笑いしていたのをよく覚えている。
けれども今、神崎さんは
右手で滑らかに文字を書いている。
ここにいるのは確かに神崎さんで、
見間違いはしない。
よく似た他の誰かでもない。
「右手でもスラスラ文字が書けるんですね。
知らなかった」
私が言うと、
神崎さんは唇を横に引いて笑った。
「たまにはこういうのもいいかと思って」
「こういうのって?」
「いつもと違う別の自分を出すっていうのかな。
人にはいろんな顔があるものだろう」
「左利きなのに右手で流暢に書くことが、
ですか?」
私のしつこい視線を遮るように
神崎さんは言った。
「僕の顔に何かついてる?
まさかハートのタトゥーとか?」
笑いながら
テーブル横の壁にかかる鏡を覗き込んだ。
夜の休憩室の蛍光灯の下に、
二人の神崎さんがいる。
私の前で
顎に手を当てて自分の顔を点検する神崎さんと、
鏡に映る神崎さん。
鏡の中の神崎さんは、
怯えた顔をして
何かを訴えるような眼差しを私に向けてきた。
胸の底がざわざわする。
「よかったらこれから飲みに行かない?
今夜は気分がいいんだ。
僕のコレクションの話をしたいな」
神崎さんは私の左手の指をじっと見つめて、
淡い紫ネイルをした爪に触れてきた。
「きれいな色だね。飾っておきたいくらい。
僕はネイルをした爪を見るのが大好きなんだ」
私は反射的に手を引っ込めた。
右手でボールペンをくるくるまわすこの人は、
本当に神崎さんなのだろうか。
ひょうきんなことを言って私を笑わせてくれる
いつもの神崎さんが、ひどく懐かしかった。
鏡の中の神崎さんは左手で、
目の前の神崎さんと同じように髪をかきあげて、
飲みに行こうと私を誘っている。
こちら側の神崎さんと同じ仕草をしながら、
鏡の中の神崎さんは
絶望的な眼差しで私に笑いかけている。
 

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第二話 「夏に生まれたわたしたちは。」

 

わたしとアヤカは双子の姉妹だ。
ぼてぼての唇も
エノコログサのような眉も
赤茶色のくせ毛もそっくりなのに、
どういうわけかわたしは右利きで
アヤカは左利きだ。
ママのお腹にいる時、
わたしたちは手を繋いでいたのだろう。
アヤカの左手とわたしの右手。
太陽の光が赤く透けてみえるお腹のなかで、
わたしたちは同時に生まれる相談をして
くすくす笑っていた。
そんな気がしている。

「いただきます」
わたしたちは並んでテーブルにつき、
おばあちゃんが作ってくれた
夕食の海老フライを食べる。
アヤカは左側に、わたしは右側に座る。
そうすれば箸を持つ手の肘と肘とが
ぶつからずに済む。
フライを齧る時、
アヤカは左脚をぶらぶらさせ、
わたしは右脚を揺らす。
「サヤカ、お行儀悪いよ」
「アヤカだって」
二人の脚の隙間を
夕暮れの風がすり抜けてゆく。
ヒグラシの声に混じって
どこからか花火の匂いがした。
揚げたての海老フライの衣が
線香花火の残りかすみたいに
テーブルの上に散らばった。
ふたりの視線が合う。
頭の中が丸見えだ。
"夕食が終わったら、
おばあちゃんの目を盗んで
花火を見にいこう!"
結託した悪だくみはお手のものだ。
アヤカが考えていることは
わたしの頭の中にもあるのだから。

サンダルを手にこっそり勝手口を抜け出すと、
わたしたちは顔を見合わせて笑った。
通りをそぞろ歩く人たちの間を小走りに駆ける。
「はやくはやく!」
アヤカが左手を差し出す。
わたしは右手でその手を掴む。
手を繋ぐと走る速度はぐんと増して、
わたしたちは最強になった。
その時、
通りの果ての空で打ち上げ花火が咲いた。
一瞬皆が足を止め、夜空を見上げる。
赤や橙、緑や青。
人々の顔に映る光は
ストロボのように明滅を繰り返す。
体の底に響く振動はわたしたちの魂を揺らす。
大きく開く空の花に飲み込まれそうになって、
足を踏ん張る。
花火は何度も咲いては夜に溶け、
輪郭の残像だけが重なってゆく。
少し怖くなって、
わたしたちは繋いだ手に同時に力を込めた。
アヤカの手からサヤカの手へ。
サヤカの手からアヤカの手へ。
血の流れがふたりの間を循環していると
錯覚する夜、
空へ還ったママのことを想った。


あの日。
白い病室にいたママは、
夏だというのに寒そうにカーディガンを羽織ってわたしたちを待っていた。
揃いの浴衣を着て登場したわたしたちを見ると、
かわいいかわいいとはしゃいだ。
ママの透き通るほっぺはピンク色に染まった。
パパは目を細めて何度も頷いた。
ママが選んでくれた浴衣の裾には大輪の花火。
それはママの瞳に吸い込まれると
太陽になって輝いた。
ママはきっと夏が大好きだったのだ。
ママとアヤカとわたしは、
両手を繋いで輪になった。
繋いだまま何度も手を上げ下げして
打ち上げ花火ごっこをした。
「輪っかには端っこがないし、
ずっと続いてるのね」
ママはそう言った。
そんなわたしたちを見つめるパパは、
窓辺の逆光の中に沈んでいて
どんな顔をしていたのか分からなかった。


「ママもこの花火を見てるのかな」
「うん。そうに違いないよ」
夏生まれのわたしたちを祝福するように
花火は何度も光の粒を降りまいた。
打ち上げる音と
わたしたちの鼓動がシンクロした瞬間、
ママの声が聞こえたような気がして
ふたりして夜風に耳を澄ませた。
「きっとパパとママも
わたしたちみたいに
いつも手を繋いでたんだろうね」
「パパの左手と」
「ママの右手」
ママが死んだあと、
遠くの国へ行くと言ったパパの気持ちも
わたしたちにはわかる。
繋ごうとした手が空を切る時の虚しさに、
パパは耐えられなかったのだ。
わたしたちは
ふたりでいれば大丈夫だから
いってらっしゃい、と
精一杯笑ってパパを送り出した朝、
パパの目はひどく澄んでいて、
遠い空しか見ていない人みたいだった。
もう二度と
永遠の輪っかを作ることはできない。
ママのいた場所は誰にも埋められないから。
輪っかには端っこがなかったけれど、
今のわたしたちには端っこしかなかった。
それでもわたしたちは最強の双子。
いつか、
パパが世界中を旅し終えたら
わたしたちに会いに来てくれると信じてる。
最後の花火が散ると、
夜の闇がしんと濃くなった。


「おやおや、家出娘たちのお帰りだねえ」
家まであと少しの坂の途中に、
シシトウの入った袋をさげた
おばあちゃんが立っていた。
もぎたての青くさい匂いと
花火の残り香が混ざり合う。
わたしたちはおばあちゃんの両側から
ぶら下がるようにして腕を絡ませた。
ママのママであるおばあちゃんからは、
ほんの少しママの匂いがした。
「帰ったら、おふろ入んなさいな」
「わたしたち、おばあちゃんの天花粉で
また真っ白になるよ」
顔を見合わせてくすくす笑う。
花火が終わっても、
夏のまんなかにいるわたしたちには
まだたくさんの命の宿題が残っている。
アヤカは左手で、わたしは右手で、
ひとつずつ絵日記みたいに書き残して印をつけてゆくのだ。
 

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第一話 「祝福の手をきみに」 

 
私の左手はいつもポケットの中にある。
なぜかというと、
他の人とはちょっと違った手をしているから。
左手を目の前にかざし、まじまじと見る。
緑色で、ヤツデの葉の形をした手のひら。
右手よりも少しだけ大きい。
血管のかわりに葉脈が走っている。
見るほどに奇妙な手だ。
だから誰にも見つからないように、
ポケットに手を入れて歩くのが
習慣になっていた。
 
小糠雨の降る初夏の午後。
大きな杉の木の下で雨宿りをしていた私の足元に、小鳥が落ちてきた。
つばめだ。まだ少しくちばしが黄色い。
飛ぶための練習中だったのだろうか。
黒い羽根があさっての方に向かって
奇妙な角度に曲がっている。
小さくチチチと鳴いたきり、
地面の上に横たわって動かない。
私はまわりに人がいないのを確かめると、
ポケットから左手を出し、
できるだけそおっとつばめを拾い上げた。
長い間雨に濡れていたせいか、
つばめの体は冷たく湿っていた。
そぼ濡れたつばめは薄目を開け、
黒目がちな瞳でこちらをじっと見た。
それから大きく息をつき、
また静かに瞼を閉じた。
どうする?
と、私は心の中で聞いてみる。
頭の中ではたくさんのつばめたちが
うるさく鳴き交わしている。
この小鳥のことを心配しているようだ。
つばめの心は遠い世界を映していた。
ここではないどこか。
オレンジ色の屋根が並ぶ異国の街の上。
鬱蒼とした黒い森の中に見え隠れする
新しい花の色。
母鳥の呼ぶ声がする。
そしてつばめは
壊れていない方の羽根を震わせた。
飛びたいのだろうか。
ここから逃げたいのだろうか。
どうする?
私は自分の心にも聞いてみる。

決めた。
私は緑色の左手でそっとつばめを包み込み、
そこへおでこをつけて祈りながら目を瞑る。
心の中のつばめの上に、
白く透ける薄布が舞い降りてきた。
その上に芽吹きの淡い黄緑色の布。
またその上には、
伸びようとする葉の鮮やかな緑色の布。
さらに夏の木陰のような濃い青翠色の布が
重ねられてゆく。
現実には見えない布に覆われたつばめは、
穏やかな眠りについていた。
あたたかくて安心できる巣の中にいるように。
しばらくすると、
私の手のひらに微かな鼓動が伝わってきた。
最初は弱々しかったリズムが
徐々に力を得てゆく。
やがてつばめはもそもそと動き出し、
私の手のひらで脚を踏ん張り立ちあがった。
私に向かって、ちぃ、とひと声鳴くと、
勢いよく翼を広げて空の彼方へ飛んでいった。
雨はいつのまにか上がっていた。
私は緑の左手で、
つばめにもう一度だけ命を与えた。
 
「へえ。そんなことができるんだ」
青空の中で旋回するつばめを見つめていると、
隣に立つ男の人が独り言のように呟いた。
いつからここにいたのだろう。
ぎくりとして、
私は言い訳を絞り出そうと難しい顔をした。
男の人は黒縁の眼鏡のブリッジを押し上げながら
俯いて笑った。
「あのつばめは家族の元へ行ったよ、きっと。
きみのおかげで旅を続けられる」
二人並んで、つばめの去った空を見上げた。
街から街へ。春から夏へ。
季節をまたいで好きな場所へ飛んで行くつばめ。
緑の葉の手を抱えた私も、
つばめのように自由に
この世界を飛び回れたらいいのに。
誰にも気兼ねなく両手を翼のように広げて、
私のままでいたい。
いつだってひとりだった。
緑の手を持つ私は誰とも手を繋げない。
左手をポケットにしまい、
見知らぬその人に背中を向けて歩き出した。
 
不意にピンク色の花びらが
風に乗って私を追い越していった。
今ごろ桜?
振り返ると、
たくさんの桜の花びらが
あとからあとからこちらに流れてくる。
「あのつばめのかわりに、
きみへのプレゼントだよ」
男の人はそう言って笑った。
初夏の眩しい陽射しが笑顔を照らした。
それから男の人は、
季節に似合わない毛糸の手袋を外した。
その右手は、
鱗のように重なったピンク色の花びらに
覆われていたのだった。
「僕は嬉しいんだ。
この手で生まれてきたことがさ」
私に向かって右手を差し出す。
その手のひらで、
花びらたちが風にそよそよとなびいている。
私以外の、初めて出会った祝福の手。
季節はずれの桜吹雪が舞うなか、
私は美しい花のような手の方へ
ゆっくり歩いていった。
 

 

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[鈴懸ねいろさんのプロフィール]
綴リスト。左利きとして生まれ、のちに右手を使うよう矯正されて育つ。だが箸と鉛筆以外は左手メインのまま今に至る。なぜかアイスを食べる際だけ、どちらの手でスプーンを持つのか毎回迷う習性がある。右手でボールを投げると必ず暴投する。
様々なクリエイターが集う【note】にてエッセイやショートショートなどを執筆中。一行詩を添えた空の写真集《わたしの空》も公開している。
AJINOMOTO PARK×noteコンテスト『おいしいはたのしい』審査員特別賞、秋の読書感想文コンテスト(コトノハ)佳作、ショートショートnote杯『天才⁉︎で賞』受賞。
 
https://note.com/suzukake_neiro8
 


 
 

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